2012年04月14日
九州毎日70D 優勝
土曜日午前中曇り小雨、肌寒し。
孫娘愛ちゃんの幼稚園入園のお祝いに昨夜は車をとばして帰宅していた。今朝、高速に8時過ぎに乗り入れると9時半少しオーバーして博多の森テニスコートへ着く。途中高速はかんけつワイパーを動かさねばならぬところもあったが、博多の森で車を止めるころは曇りで外気は肌寒く、少し頭を回転させ冬用の上着に袖を通して本部で確認した5番コートへ足を運んだ。ダブルスパートナーのM氏が1シードのO氏と
シングルス準決勝を始めて間もないところだった。小高い丘を削って作られたアップダウンの激しいコートを一周して、他の試合を見て回った。14番コートでは75歳以上で仲間のF氏が準決勝を行っていた。31のリードを確認してから1,2,3番コートへ足を向けると一般男子の準決勝が行われていた。
2番では1シードの選手とWCらしきことを耳にした中学生らしさの残る高校生が熱戦を展開していた。
この高校生が昨日か一昨日、3番コートで3シードの選手と果敢な試合をやっているのに出くわし、目を奪われしばし成り行きを見守っていた。6363で高校生が勝ったのを後で確認していた。
流石の高校生も1シードには歯が立たなかったようだが、どんな選手に育つのか楽しみだ。親族とおぼしき人たちが客席の上段に陣とってカメラを回して応援していたのが印象に残った。
5番コートへ戻るとM氏がファーストを63で取り、足の裏が痛いと言っていたO氏、足をかばいながら痛々しく歩いていたが、いざ生きたボールが来ると痛さを忘れて走っているように思えた。何時止めるのかと注視していたが最後まで頑張り、シングルスのファイナルを二日間とダブルをこなしてきたM氏も耐えて耐えて戦っていたに相違ない。
セカンドは開き直っていたO氏が接戦を一歩抜け出して54とリードしたのでファイナルの可能性が高くなり、M氏の体を気遣ったが、しかしここからM氏の逆襲が始まった。
55としたときは、「よしー」小さく声にしこぶしを握りしめたのには驚いた。めったに見られない光景だった。
鞭打って戦っていたO氏にはもう限界に来ていたようだ、56 57とようやく決着が付き、M氏の決勝行きが決った瞬間だった。
終わったのは11時半、12時半からダブルスの決勝戦をすると伝えられた。
昼めしもそこそこに12時半前にはM氏とぼくは2番コートへ足を入れた。相手は広島からのOI氏とTK氏ペアーだ。
OI氏は記憶に残る選手だった。記憶をさかのぼればJOPに参戦して2年目の頃対戦して負けた記憶が残っていた。
(20080405ショックとふがいなさでいっぱいです)
決勝戦は審判台にアンパイヤーが座った。緊張の試合開始、コイントスでレシーブを選択していきなりブレーク、ぼくのサービスをキープして20とで出し順調に見えたが、22と追いつかれて簡単にはいかぬと緊張感が高まる一方だった。
しかし相手選手の特長と球筋が見えてきた。OI氏は軟式打ちのスピンボールだがバックボレーが不得手でバックのラケットの裏面を使ったスピンは強烈な半面、出来不出来の鮮明だった。身長のあるTK氏のサービスを警戒したが平凡なゆるいサービスでリターンは容易だがボレーやポーチを得意としていた。
22からので直しに接戦の中ゲームを取ってゆき終わってみればファーストは62と思わぬスコアーで終わっていた。
セカンドは相手のサービスからブレークのチャンスを逃すと、互いにキープしていたがぼくがブレークされて24、危ういと体が硬直したがすぐにブレークして34、M氏がキープして44と振り出しに戻った。そして相手のサービスをブレークして54ついに王手をかけたのだ。ぼくにとって思いもよらぬ優勝が目の前にぶら下がっていた。この辺から泣かされたこと、泣いた人をあまた見てきた。
そしてぼくのサービス、M氏のシングル決勝戦の負担を軽くさせる為にはセカンドで決着をというのが阿吽の思いだった。最初のポイントはぼくのネットプレー、ボレーを前衛にぶつけるとネットすれすれに入って危うい1ポイント、15 0 。2ポイントはネット際高く舞うボールを、ぼくはフォアでの片手、ラケットとの裏面を使って前に出ていた後衛の足元に落として30。3ポイント目はさだかでないが40 0とマッチポイントを迎えた。ファースト確実に入れて
リターンされたボールをクロスにストロークすると、慎重になりすぎた相手のヒットしたボールはネットを超えることが出来なかった。その瞬間、待望の優勝が決ったのだった。
孫娘愛ちゃんの幼稚園入園のお祝いに昨夜は車をとばして帰宅していた。今朝、高速に8時過ぎに乗り入れると9時半少しオーバーして博多の森テニスコートへ着く。途中高速はかんけつワイパーを動かさねばならぬところもあったが、博多の森で車を止めるころは曇りで外気は肌寒く、少し頭を回転させ冬用の上着に袖を通して本部で確認した5番コートへ足を運んだ。ダブルスパートナーのM氏が1シードのO氏と
シングルス準決勝を始めて間もないところだった。小高い丘を削って作られたアップダウンの激しいコートを一周して、他の試合を見て回った。14番コートでは75歳以上で仲間のF氏が準決勝を行っていた。31のリードを確認してから1,2,3番コートへ足を向けると一般男子の準決勝が行われていた。
2番では1シードの選手とWCらしきことを耳にした中学生らしさの残る高校生が熱戦を展開していた。
この高校生が昨日か一昨日、3番コートで3シードの選手と果敢な試合をやっているのに出くわし、目を奪われしばし成り行きを見守っていた。6363で高校生が勝ったのを後で確認していた。
流石の高校生も1シードには歯が立たなかったようだが、どんな選手に育つのか楽しみだ。親族とおぼしき人たちが客席の上段に陣とってカメラを回して応援していたのが印象に残った。
5番コートへ戻るとM氏がファーストを63で取り、足の裏が痛いと言っていたO氏、足をかばいながら痛々しく歩いていたが、いざ生きたボールが来ると痛さを忘れて走っているように思えた。何時止めるのかと注視していたが最後まで頑張り、シングルスのファイナルを二日間とダブルをこなしてきたM氏も耐えて耐えて戦っていたに相違ない。
セカンドは開き直っていたO氏が接戦を一歩抜け出して54とリードしたのでファイナルの可能性が高くなり、M氏の体を気遣ったが、しかしここからM氏の逆襲が始まった。
55としたときは、「よしー」小さく声にしこぶしを握りしめたのには驚いた。めったに見られない光景だった。
鞭打って戦っていたO氏にはもう限界に来ていたようだ、56 57とようやく決着が付き、M氏の決勝行きが決った瞬間だった。
終わったのは11時半、12時半からダブルスの決勝戦をすると伝えられた。
昼めしもそこそこに12時半前にはM氏とぼくは2番コートへ足を入れた。相手は広島からのOI氏とTK氏ペアーだ。
OI氏は記憶に残る選手だった。記憶をさかのぼればJOPに参戦して2年目の頃対戦して負けた記憶が残っていた。
(20080405ショックとふがいなさでいっぱいです)
決勝戦は審判台にアンパイヤーが座った。緊張の試合開始、コイントスでレシーブを選択していきなりブレーク、ぼくのサービスをキープして20とで出し順調に見えたが、22と追いつかれて簡単にはいかぬと緊張感が高まる一方だった。
しかし相手選手の特長と球筋が見えてきた。OI氏は軟式打ちのスピンボールだがバックボレーが不得手でバックのラケットの裏面を使ったスピンは強烈な半面、出来不出来の鮮明だった。身長のあるTK氏のサービスを警戒したが平凡なゆるいサービスでリターンは容易だがボレーやポーチを得意としていた。
22からので直しに接戦の中ゲームを取ってゆき終わってみればファーストは62と思わぬスコアーで終わっていた。
セカンドは相手のサービスからブレークのチャンスを逃すと、互いにキープしていたがぼくがブレークされて24、危ういと体が硬直したがすぐにブレークして34、M氏がキープして44と振り出しに戻った。そして相手のサービスをブレークして54ついに王手をかけたのだ。ぼくにとって思いもよらぬ優勝が目の前にぶら下がっていた。この辺から泣かされたこと、泣いた人をあまた見てきた。
そしてぼくのサービス、M氏のシングル決勝戦の負担を軽くさせる為にはセカンドで決着をというのが阿吽の思いだった。最初のポイントはぼくのネットプレー、ボレーを前衛にぶつけるとネットすれすれに入って危うい1ポイント、15 0 。2ポイントはネット際高く舞うボールを、ぼくはフォアでの片手、ラケットとの裏面を使って前に出ていた後衛の足元に落として30。3ポイント目はさだかでないが40 0とマッチポイントを迎えた。ファースト確実に入れて
リターンされたボールをクロスにストロークすると、慎重になりすぎた相手のヒットしたボールはネットを超えることが出来なかった。その瞬間、待望の優勝が決ったのだった。