2009年05月09日
ニユーコートとしばしの別れ
晴れ。
朝から垣根の消毒する。枯れ枝のように見える赤めから若芽がぽつぽつ出始めているので、斑点の予防のつもり。
9時過ぎコートへ出かけるとめずらしくM氏が来ている。しばらくこのニューコートとお別れなので昼過ぎまで休み休み仲間とテニスを楽しむ。
左右両手打ちは分かったようで又分からなくなる。バックが不安定だとそちらに意識を集中していると、フォアーがまたおかしくなり迷いだす。まだまだ克服するには時間がかかりそうだが、先は長いので一つ一つ克服して行く過程を楽しみながらやっていこう。
シッタカブッタは幸福をさがしに
何年も歩いてみたが
歩いても歩いても見つからなかった
シッタカブッタは休んで考えた
シッタカブッタさがすのをやめて
歩くことを楽しみはじめた
幸福は歩くことそものにあった
(幸福の旅)
この詩は、道元禅師の修証観(修行と悟りに関する見方)を説明するのに格好な詩です。
「幸福」を「悟り」に、「歩く」を「修行」に置き換えてみると、道元禅師の修証観に当てはまります。「悟り」は「修行」そのものにあった、ということになります。修行のほかに悟りがあるわけではないのです。これが道元禅師の教えです。
この詩がうたうように、「幸福」は「歩く」ということそのものにあると私も思います。
山のあなたの空遠く
「幸い」住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
(山のあなた)
カール・ブッセ/上田 敏訳
この詩は、「幸福」を求める人間の願いと、それを求めても得られない切なさをうたっています。そして逆説的に、幸福は遠くにあるのでなく、今ここにあることを気づかせようとしているのではないかと私には思われます。道元禅師の「無取得・無所求・無所悟」とは、「何かを獲得しょうとしない」「何かを求めようとしない」「悟りを得ようと思わない」ということでありますが、「求めない」ということは「今・ここ・このこと」を大切にするということでもあるのです。
「こころをよむ」角田泰隆
朝から垣根の消毒する。枯れ枝のように見える赤めから若芽がぽつぽつ出始めているので、斑点の予防のつもり。
9時過ぎコートへ出かけるとめずらしくM氏が来ている。しばらくこのニューコートとお別れなので昼過ぎまで休み休み仲間とテニスを楽しむ。
左右両手打ちは分かったようで又分からなくなる。バックが不安定だとそちらに意識を集中していると、フォアーがまたおかしくなり迷いだす。まだまだ克服するには時間がかかりそうだが、先は長いので一つ一つ克服して行く過程を楽しみながらやっていこう。
シッタカブッタは幸福をさがしに
何年も歩いてみたが
歩いても歩いても見つからなかった
シッタカブッタは休んで考えた
シッタカブッタさがすのをやめて
歩くことを楽しみはじめた
幸福は歩くことそものにあった
(幸福の旅)
この詩は、道元禅師の修証観(修行と悟りに関する見方)を説明するのに格好な詩です。
「幸福」を「悟り」に、「歩く」を「修行」に置き換えてみると、道元禅師の修証観に当てはまります。「悟り」は「修行」そのものにあった、ということになります。修行のほかに悟りがあるわけではないのです。これが道元禅師の教えです。
この詩がうたうように、「幸福」は「歩く」ということそのものにあると私も思います。
山のあなたの空遠く
「幸い」住むと人のいふ。
ああ、われひとと尋めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
(山のあなた)
カール・ブッセ/上田 敏訳
この詩は、「幸福」を求める人間の願いと、それを求めても得られない切なさをうたっています。そして逆説的に、幸福は遠くにあるのでなく、今ここにあることを気づかせようとしているのではないかと私には思われます。道元禅師の「無取得・無所求・無所悟」とは、「何かを獲得しょうとしない」「何かを求めようとしない」「悟りを得ようと思わない」ということでありますが、「求めない」ということは「今・ここ・このこと」を大切にするということでもあるのです。
「こころをよむ」角田泰隆