2008年05月04日
伊達活躍に賛辞
九時五十分のNHKのサンデースポーツが待ちどうしかった。
トップで伊達活躍の賛辞の報道はあったが優勝の単語がでなかったので心配しているとやはりそうだった。ファーストを取りセカンドもリード十分勝算はあったと思うが、表情にはさすがに疲れが表れておりその辺の影響もあったと推測できる。ダブルスとシングルスを毎日こなしてのこれだから、たいしたもである。そしてダブルスは優勝しているのだ。
NHKでもこれだからマスメディアは大騒ぎしてくれているだろう、テニスを愛好者にとってこれにこしたことはない。
伊達選手が期待しているように、これに刺激を受けて世界四大大会で活躍する選手の輩出を夢でなくて現実になることを願う一人だ。
来週の福岡での女子トーナメントに伊達選手が来るとの報道があったが、近くだし行ってみたい。
さて、OM氏と九時よりクラブでシングルス。フォアーのストレートの両手打ちが入らず苦戦しファースト26で落とし、セカンドは54リードしたところで仲間が集まったのでやめる。
それからダブルスを3セット相手を代えて遊ぶ。
トップで伊達活躍の賛辞の報道はあったが優勝の単語がでなかったので心配しているとやはりそうだった。ファーストを取りセカンドもリード十分勝算はあったと思うが、表情にはさすがに疲れが表れておりその辺の影響もあったと推測できる。ダブルスとシングルスを毎日こなしてのこれだから、たいしたもである。そしてダブルスは優勝しているのだ。
NHKでもこれだからマスメディアは大騒ぎしてくれているだろう、テニスを愛好者にとってこれにこしたことはない。
伊達選手が期待しているように、これに刺激を受けて世界四大大会で活躍する選手の輩出を夢でなくて現実になることを願う一人だ。
来週の福岡での女子トーナメントに伊達選手が来るとの報道があったが、近くだし行ってみたい。
さて、OM氏と九時よりクラブでシングルス。フォアーのストレートの両手打ちが入らず苦戦しファースト26で落とし、セカンドは54リードしたところで仲間が集まったのでやめる。
それからダブルスを3セット相手を代えて遊ぶ。
2008年05月04日
一枚のはがき
七年前、大本山永平寺で一緒に座禅の研修を受けたI氏より、《修行していた大乗時専門僧堂を三月末に暇乞いをして、自房にて辨道を努めていくことになり、富山越中八尾の壇信徒のない小さなお寺が自房で、何かの折お立ち寄り頂ければ幸いに存じます。住職とはいってもまだまだ未熟なお坊さんです、うんぬん・・・・・・・・・・。》というような内容であった。
修行に励み勤めそこまでにいたった彼を思いうれしい気持ちが流れた。修行がいかに大変かは三泊四日で経験している。それを5年近くやりとげた彼を思うとき感慨ひとしおである。
研修が終わり長崎の彼と一二度賀状の交換をしてから音信が途絶え、しばらくしてから大乗時気づけの住所で便りがあり驚いた。研修の終わりには足が痛くなり座禅が続けられなくなったとき彼が励まし助けてくれた。ポルトガルの男女の学生も研修に加わり彼が英語で通訳をしたりして助けた。その彼も僕以上に色々とあったのだろう。きっと。
お互いに人生永く続ければそれぞれいつの間にか重荷を背負って生きているとおもう。
母を亡くしていたたまれない日々を過ごしていたとき、読んだ新聞記事にひかれて、わらをもつかむ思いで申し込んだ。
朝暗いうちの汽車に乗り、乗り継いで福井の山奥の永平寺にやっとの思いでたどり着いたのは昼過ぎで、集合のぎりぎりだった。そして短い期間だったが11人(男6名女5名)で色々な体験をさせてもらった。
ここに来たら救ってもらえると期待してくる人も多いと思うけれど、結局自分でしかないということに気がつくことではないか。
早朝からの座禅の連続で足の痛みはどうしょうもなく梵鐘を耳にしながら時間を経過を願い、瞑想には程遠いものであったが、けれかもやはりそのエッセンスは身にもって受け止めたと思う。
朝のお勤め、大広間にもくぎょうなどの打楽器のリズムに合わせ、どこからともなく200人近い修行僧が自分の座布を持って順序よく現れて配置され、読経の中でセレモニーが展開されていくのは圧巻で、演出されたショーの感じさえ受けた。
その他色々なことを経験をさせてもらい、研修が終わり仲間と門を後にしたときのすがすがしかったことを思い出している。
修行に励み勤めそこまでにいたった彼を思いうれしい気持ちが流れた。修行がいかに大変かは三泊四日で経験している。それを5年近くやりとげた彼を思うとき感慨ひとしおである。
研修が終わり長崎の彼と一二度賀状の交換をしてから音信が途絶え、しばらくしてから大乗時気づけの住所で便りがあり驚いた。研修の終わりには足が痛くなり座禅が続けられなくなったとき彼が励まし助けてくれた。ポルトガルの男女の学生も研修に加わり彼が英語で通訳をしたりして助けた。その彼も僕以上に色々とあったのだろう。きっと。
お互いに人生永く続ければそれぞれいつの間にか重荷を背負って生きているとおもう。
母を亡くしていたたまれない日々を過ごしていたとき、読んだ新聞記事にひかれて、わらをもつかむ思いで申し込んだ。
朝暗いうちの汽車に乗り、乗り継いで福井の山奥の永平寺にやっとの思いでたどり着いたのは昼過ぎで、集合のぎりぎりだった。そして短い期間だったが11人(男6名女5名)で色々な体験をさせてもらった。
ここに来たら救ってもらえると期待してくる人も多いと思うけれど、結局自分でしかないということに気がつくことではないか。
早朝からの座禅の連続で足の痛みはどうしょうもなく梵鐘を耳にしながら時間を経過を願い、瞑想には程遠いものであったが、けれかもやはりそのエッセンスは身にもって受け止めたと思う。
朝のお勤め、大広間にもくぎょうなどの打楽器のリズムに合わせ、どこからともなく200人近い修行僧が自分の座布を持って順序よく現れて配置され、読経の中でセレモニーが展開されていくのは圧巻で、演出されたショーの感じさえ受けた。
その他色々なことを経験をさせてもらい、研修が終わり仲間と門を後にしたときのすがすがしかったことを思い出している。