2009年03月10日
Uさんの思い出話
晴れ。連れ添いを検診のため近くの病院へ送り、その足でコートに行くと昨夜来の雨で心配したが一面はかろうじて使えた。一人で練習しているとO氏からお茶に誘われてO邸でこ一時間くらい世間話。
話題はどうしても先日亡くなったUさんの思い出話となる。
O氏は、一昨年の秋Uさんが退院して間もないころ、O邸の菊観賞会ということでU氏を誘って気のあった仲間たちとの会食を催してくれた。
そのときのUさんの満面の笑みを思い出す。集う仲間も心からの祝福があふれ出て、なごやかな喜びに満ちた時が流れていった。
しばらくして二人でコートに戻り、コート整備。O氏は軽トラでローラーを引っ張り、自分はブラシを引いた。近くのDさんも見えていてブラシをかけていた。
O氏とストロークを少しやった後シングルの挑戦を受けたが、昨日のシングルスの疲れか、足が全く動かずに、そのうちにばん回と思っていたが26で負けてしまう。
こんな体力では九州毎日テニス選手権で勝ち進むなんて到底おぼつかない話だ。
おまけにダブルスもエントリしているからどうなることやら・・・・・。
残り一月あまりどうして過すべきか、迷える羊なり。
月読みのひかりを待ちて帰りませ
山路は栗のいがの多きに 良寛
良寛は十八歳のときに家を出て出家したわけですが、二十二歳から三十四歳まで、現在の倉敷市玉島の円通寺の国仙和尚の下で修行しました。三十四歳のときに国仙和尚が亡くなられたので寺を離れたことは、すでに述べたとおりですが、その跡を継いだ人とあまり仲がよくなかったらしく、そえから放浪が始まって、三十四歳から三十九歳頃までの五年間を、どこをどう放浪していたのか、いまだにわからないのです。良寛自身その間のことは何も遺しておらず、人に語った形跡もありません。その間、一度だけ近藤万丈という人が土佐(高知県)で良寛に会ったときの記録がありますが、そのほかは、一体どうしていたのかまったく不明なのです。
ともかく、三十九歳の頃に良寛はすべてを捨てた出家僧として越後に戻ってきました。
これは道元の「家郷あらんは家郷をはられ」という教えに背くようですが、生まれたところに行ったわけではないのですから、許されることでしょう。とにかくしかし、生家には帰らず、郷本という海辺の町に行き、そこで空庵(空いた庵といいますから塩焼きの小屋か何かでしょうが)を借りて暮らし始めました。近所の人の了解を得て暮らしたのですが、その人たちが見ると、良寛は托鉢に出て、お米でも少し余計にもらったときは、必ずそれを貧しい人にあげたり、小鳥に与えたりしてしまう。自分は必要な分だけしかいただかないというふうで、庵のなかはきわめて質素で、禁欲的な暮らしぶりであることが近所の人たちにもだんだんわかり始めたことから、良寛が信用を得ていったというような逸話が伝えられています。
世間というものは、何もしない、役に立たない人には報いないのが常です。良寛は世の役に立つことは何一つもしないのです。しかも、農民でもなく、名主でもなく、勿論、武士でもありません。詩は作りますが、漢詩人でもない。立派な歌をつくりますが、歌人でもない。立派な書を書きますけれど、書家でもない。世の中のことを関心を抱かず、世間の人たちとの関わりを求めようともせず、世間智というものには全く関心が湧かず、無知でさえある。つまり、その意味では良寛は何者でもない、という存在です。ただの一個の人、人間というものです。
ただ、その一個人間であるところの良寛は、俗世間の人とは住んでいる世界が違うにもかかわらず、良寛に接する人たちは、一様に彼からこんこんとあふれ出る慈しみに満ちた愛を感じ取り、いかにもいい気持ちになる。第一回では、解良家に良寛が数日滞在するだけで、家中の者の心が和んで気持ちよくなったという話をしましたが、それと同じことで、すべての人が良寛その人の人柄に触れると、得も言われぬいい気持ちになるのです。
越後に帰ってからしばらくの間は、良寛その人にとっておそらく大変つらかった時期ではなかったかと思うのです。当時、農民はその土地土地から離れることが容易ではなかったため、よそ者に対して非常に疑い深く、なかなか信用したがらないのが普通でした。ましてや良寛は何一つ持たない風来坊のような坊さんですから、あれはいったい何者かと警戒されていたと思うのです。しかし、良寛はだんだんと理解され、受け容れられるようになります。
(生きる知恵 中野孝次)
話題はどうしても先日亡くなったUさんの思い出話となる。
O氏は、一昨年の秋Uさんが退院して間もないころ、O邸の菊観賞会ということでU氏を誘って気のあった仲間たちとの会食を催してくれた。
そのときのUさんの満面の笑みを思い出す。集う仲間も心からの祝福があふれ出て、なごやかな喜びに満ちた時が流れていった。
しばらくして二人でコートに戻り、コート整備。O氏は軽トラでローラーを引っ張り、自分はブラシを引いた。近くのDさんも見えていてブラシをかけていた。
O氏とストロークを少しやった後シングルの挑戦を受けたが、昨日のシングルスの疲れか、足が全く動かずに、そのうちにばん回と思っていたが26で負けてしまう。
こんな体力では九州毎日テニス選手権で勝ち進むなんて到底おぼつかない話だ。
おまけにダブルスもエントリしているからどうなることやら・・・・・。
残り一月あまりどうして過すべきか、迷える羊なり。
月読みのひかりを待ちて帰りませ
山路は栗のいがの多きに 良寛
良寛は十八歳のときに家を出て出家したわけですが、二十二歳から三十四歳まで、現在の倉敷市玉島の円通寺の国仙和尚の下で修行しました。三十四歳のときに国仙和尚が亡くなられたので寺を離れたことは、すでに述べたとおりですが、その跡を継いだ人とあまり仲がよくなかったらしく、そえから放浪が始まって、三十四歳から三十九歳頃までの五年間を、どこをどう放浪していたのか、いまだにわからないのです。良寛自身その間のことは何も遺しておらず、人に語った形跡もありません。その間、一度だけ近藤万丈という人が土佐(高知県)で良寛に会ったときの記録がありますが、そのほかは、一体どうしていたのかまったく不明なのです。
ともかく、三十九歳の頃に良寛はすべてを捨てた出家僧として越後に戻ってきました。
これは道元の「家郷あらんは家郷をはられ」という教えに背くようですが、生まれたところに行ったわけではないのですから、許されることでしょう。とにかくしかし、生家には帰らず、郷本という海辺の町に行き、そこで空庵(空いた庵といいますから塩焼きの小屋か何かでしょうが)を借りて暮らし始めました。近所の人の了解を得て暮らしたのですが、その人たちが見ると、良寛は托鉢に出て、お米でも少し余計にもらったときは、必ずそれを貧しい人にあげたり、小鳥に与えたりしてしまう。自分は必要な分だけしかいただかないというふうで、庵のなかはきわめて質素で、禁欲的な暮らしぶりであることが近所の人たちにもだんだんわかり始めたことから、良寛が信用を得ていったというような逸話が伝えられています。
世間というものは、何もしない、役に立たない人には報いないのが常です。良寛は世の役に立つことは何一つもしないのです。しかも、農民でもなく、名主でもなく、勿論、武士でもありません。詩は作りますが、漢詩人でもない。立派な歌をつくりますが、歌人でもない。立派な書を書きますけれど、書家でもない。世の中のことを関心を抱かず、世間の人たちとの関わりを求めようともせず、世間智というものには全く関心が湧かず、無知でさえある。つまり、その意味では良寛は何者でもない、という存在です。ただの一個の人、人間というものです。
ただ、その一個人間であるところの良寛は、俗世間の人とは住んでいる世界が違うにもかかわらず、良寛に接する人たちは、一様に彼からこんこんとあふれ出る慈しみに満ちた愛を感じ取り、いかにもいい気持ちになる。第一回では、解良家に良寛が数日滞在するだけで、家中の者の心が和んで気持ちよくなったという話をしましたが、それと同じことで、すべての人が良寛その人の人柄に触れると、得も言われぬいい気持ちになるのです。
越後に帰ってからしばらくの間は、良寛その人にとっておそらく大変つらかった時期ではなかったかと思うのです。当時、農民はその土地土地から離れることが容易ではなかったため、よそ者に対して非常に疑い深く、なかなか信用したがらないのが普通でした。ましてや良寛は何一つ持たない風来坊のような坊さんですから、あれはいったい何者かと警戒されていたと思うのです。しかし、良寛はだんだんと理解され、受け容れられるようになります。
(生きる知恵 中野孝次)
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