2013年05月23日
香春神社
木曜日、はれ。
城南コートの日。チャリで行ったのは何時だったか。ダブルスの練習でM氏と連絡を取り行くことにした。体は正直だ、今日はチャリで行こうと言わなかった。齢のせいか疲労が抜けていないのだ。車で走りあらためて確認すると距離20キロ、50分弱。来月初旬の九州選手権に向けて、M氏と組んでダブルス3セット。2勝1敗。
シングルスのドローは厳しそうだ。ダメなときはダブルスにかけたいという思いは強い。どじょうはいるかな?
北九州からの帰りは小倉からまっすぐ南に下りてぼくの心のふるさと田川の香春町をカーナビに指示した。道は通りもすくなく整備されていて車はすいすいと走ったのだが、曇天で肝心の香春岳は姿は全く見えなかった。セメント会社に削りとられ更地のようになっていた一の岳、ぼくが住んでいたころはまだ山の体はなしていたのは、父が残してくれた写真でわかる。
炭坑節に歌われた「ひと山~ふた山~み山~こえーよいよい」は香春岳の一の岳、二の岳、三の岳と聞いたことがある。ずいぶん昔の話。
昔住んでいた面影を残す路地、車一台やっと通れる道幅をゆるゆる進んでいくと、住んでいた家と幼稚園の友の家が隣、小学校を左に見て進むと記憶に残る香春神社が左手にある。車の置き場もない。参道もない道際に立っている鳥居、道際に車をとめて本殿まで登って見た。何十年ぶりかもわからない。大きな岩は記憶にある。古ぼけた本殿には人影は見当たらなかった。赤い袴をつけた巫女さんをを期待していたのに、こんなに静かだったのかなあとおもった。
道際の鳥居の前での写真がある。鳥居を背にして右際に右から母、兄、姉、そして3歳か4歳のぼく。シャッターを握っていた父は写っていない。どんな気持ちで父はいたのであろうか、まもなく病で亡くなり、ぼくたちは路頭に迷う羽目になった。ほんの終戦の前のことであった。
あれからうん十年、訪れてみると神社は創建一千三百年祭を11月に行うという。
香春岳より落ちてきた岩は昭和14年とある。ぼくもその年、近くで生を受けたのだ。神話の時代ならいざ知らず、昭和の時代の出来事とは信じがたい。
昭和の激動の時代が通り過ぎた後に、僕の生まれた界隈はひっそりとあまり姿を変えずに生き残っていた。
(香春神社)
城南コートの日。チャリで行ったのは何時だったか。ダブルスの練習でM氏と連絡を取り行くことにした。体は正直だ、今日はチャリで行こうと言わなかった。齢のせいか疲労が抜けていないのだ。車で走りあらためて確認すると距離20キロ、50分弱。来月初旬の九州選手権に向けて、M氏と組んでダブルス3セット。2勝1敗。
シングルスのドローは厳しそうだ。ダメなときはダブルスにかけたいという思いは強い。どじょうはいるかな?
北九州からの帰りは小倉からまっすぐ南に下りてぼくの心のふるさと田川の香春町をカーナビに指示した。道は通りもすくなく整備されていて車はすいすいと走ったのだが、曇天で肝心の香春岳は姿は全く見えなかった。セメント会社に削りとられ更地のようになっていた一の岳、ぼくが住んでいたころはまだ山の体はなしていたのは、父が残してくれた写真でわかる。
炭坑節に歌われた「ひと山~ふた山~み山~こえーよいよい」は香春岳の一の岳、二の岳、三の岳と聞いたことがある。ずいぶん昔の話。
昔住んでいた面影を残す路地、車一台やっと通れる道幅をゆるゆる進んでいくと、住んでいた家と幼稚園の友の家が隣、小学校を左に見て進むと記憶に残る香春神社が左手にある。車の置き場もない。参道もない道際に立っている鳥居、道際に車をとめて本殿まで登って見た。何十年ぶりかもわからない。大きな岩は記憶にある。古ぼけた本殿には人影は見当たらなかった。赤い袴をつけた巫女さんをを期待していたのに、こんなに静かだったのかなあとおもった。
道際の鳥居の前での写真がある。鳥居を背にして右際に右から母、兄、姉、そして3歳か4歳のぼく。シャッターを握っていた父は写っていない。どんな気持ちで父はいたのであろうか、まもなく病で亡くなり、ぼくたちは路頭に迷う羽目になった。ほんの終戦の前のことであった。
あれからうん十年、訪れてみると神社は創建一千三百年祭を11月に行うという。
香春岳より落ちてきた岩は昭和14年とある。ぼくもその年、近くで生を受けたのだ。神話の時代ならいざ知らず、昭和の時代の出来事とは信じがたい。
昭和の激動の時代が通り過ぎた後に、僕の生まれた界隈はひっそりとあまり姿を変えずに生き残っていた。
(香春神社)
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