2011年06月16日
ダッシュの後遺症か
木曜日、終日雨。
二日間、夕食の後テレビの前に座ってごろりと横になるとそのまま起きることが出来なかった。最初の日は夜中に目覚め、昨日は4時近くまでそのまま横たわっていた。
最初の日は特別なトレーニングを試みていたその影響かもと思ったりした。おかげでOK氏にシングルスを敗れたとは言い訳はしない。
今年、まだ試合中の痙攣はない。長時間の試合がなかったと言えばそれまでだが、スロージョギングの成果かなと勝手に思っている。しかし、九州毎日の負けた試合、九州選手権で負けた試合を振り返ると何か技量以外で足りないものがありそうな気がするが、それがなにか五里霧中なのだ。経験不足だうんぬんと言われればその通りかもしれない。
その前の日、元長距離ランナーのN氏にそのことを話してみた。しばらく考えていたが、ダッシュの練習が効果があるかも知れませんねとおもむろに言った。心肺力が高まるので、走らされて苦しいときに回復が早くなると言う。
その日ぼくは昼前にコートに来て、早速ダッシュを試みてみた。ベースラインからネットまで、なん往復かするとフェンスにもたれこみ、やっと耐えて肩で息をした。それを何度か繰り返すと、体が壊れそうになったのでやめた。
そして帰り際にストロークの練習の後、OK氏とワンセットお願いしたのだが、26で一方的にやられてしまった。OK氏はめきめきと腕を上げている一人だが、まだ何とかなるとの思いで戦っていた。いつもとは違いミスは少なく粘っていながら、チャンスには思い切りの良いフォアーで攻めてくる。やることなすことが空回りしだした。焦れば焦るほど思う壺。本番での負け試合を思い出し、頑張っては見たがどうすることも出来なかった。
昨日はレッスンが主体であったにもかかわらず、パタンキュウになったのは、ダッシュの後遺症が続いていたのかもしれない。
『世界ランキング3位の日本人テニスプレーヤー』
wowowが全仏放映で画面にスポットを流して佐藤次郎の宣伝をしていた。僕は早々と録画をセットしていた。九州選手権の終わった翌日13日月曜日夜に放映された。
ぼくは固唾をのんで画面を見つめていた。昭和の初期、セピア色の時代に活躍した人くらいしか知らないのだ。
彼は青春を謳歌してテニスを楽しんでいた。英国にも短期留学して男女平等に楽しむテニススタイルにまぶしい思いで見ていたに違いない。だが世界が戦争の渦中になって、彼の考えも変わっていった。
まじめにまじめすぎる次郎はいつしか武士道的精神に巻き込まれていった。国家的観念みたいなものに支配されていった。彼にしてみれば国別対抗のデビスカップは全世界を相手とした一つの戦争であった。ドイツに敗れると生きて再び故国の土をふまじの覚悟であった。
満州で砲丸と戦う代わりに自分はテニスの球を砲丸と思いラケットを握って戦うとすれば満州の兵隊にも申し訳が立つとの思いだったらしい。
オーストラリアの17歳の格下に負けたのがトラウマのなっていたらしい。
彼はコート上での国別対抗戦の敗戦にたいして国家国民に申し訳ない合わせる顔がないと腹を切る代わりに投身自殺をして果てたのだ。
あの時代を思えば、みんなそんな思いであったと思うが命を絶つという行為に、佐藤次郎の大和魂を見る思いがした。
日本と英国で新たにフイルムが見つかったとのことでの、番組だったかもしれないが、はるか昔の3位を強調せねばならないところに、日本人のジレンマを思う。
女子の全仏を征した中国のりー・ナ、このスポーツでは日本が先行していたはずなのに、あれよあれよと言う間に持っていかれてしまった。29歳のりー・ナの活躍はまさにあっぱれ。全豪では準優勝とテニス界では晩年と思える年齢になっての一歩一歩の成長は、努力すればこうなれるんだよと範を示してくれたのだ。
これを契機に日本を含むアジア選手の活躍を期待したい。
二日間、夕食の後テレビの前に座ってごろりと横になるとそのまま起きることが出来なかった。最初の日は夜中に目覚め、昨日は4時近くまでそのまま横たわっていた。
最初の日は特別なトレーニングを試みていたその影響かもと思ったりした。おかげでOK氏にシングルスを敗れたとは言い訳はしない。
今年、まだ試合中の痙攣はない。長時間の試合がなかったと言えばそれまでだが、スロージョギングの成果かなと勝手に思っている。しかし、九州毎日の負けた試合、九州選手権で負けた試合を振り返ると何か技量以外で足りないものがありそうな気がするが、それがなにか五里霧中なのだ。経験不足だうんぬんと言われればその通りかもしれない。
その前の日、元長距離ランナーのN氏にそのことを話してみた。しばらく考えていたが、ダッシュの練習が効果があるかも知れませんねとおもむろに言った。心肺力が高まるので、走らされて苦しいときに回復が早くなると言う。
その日ぼくは昼前にコートに来て、早速ダッシュを試みてみた。ベースラインからネットまで、なん往復かするとフェンスにもたれこみ、やっと耐えて肩で息をした。それを何度か繰り返すと、体が壊れそうになったのでやめた。
そして帰り際にストロークの練習の後、OK氏とワンセットお願いしたのだが、26で一方的にやられてしまった。OK氏はめきめきと腕を上げている一人だが、まだ何とかなるとの思いで戦っていた。いつもとは違いミスは少なく粘っていながら、チャンスには思い切りの良いフォアーで攻めてくる。やることなすことが空回りしだした。焦れば焦るほど思う壺。本番での負け試合を思い出し、頑張っては見たがどうすることも出来なかった。
昨日はレッスンが主体であったにもかかわらず、パタンキュウになったのは、ダッシュの後遺症が続いていたのかもしれない。
『世界ランキング3位の日本人テニスプレーヤー』
wowowが全仏放映で画面にスポットを流して佐藤次郎の宣伝をしていた。僕は早々と録画をセットしていた。九州選手権の終わった翌日13日月曜日夜に放映された。
ぼくは固唾をのんで画面を見つめていた。昭和の初期、セピア色の時代に活躍した人くらいしか知らないのだ。
彼は青春を謳歌してテニスを楽しんでいた。英国にも短期留学して男女平等に楽しむテニススタイルにまぶしい思いで見ていたに違いない。だが世界が戦争の渦中になって、彼の考えも変わっていった。
まじめにまじめすぎる次郎はいつしか武士道的精神に巻き込まれていった。国家的観念みたいなものに支配されていった。彼にしてみれば国別対抗のデビスカップは全世界を相手とした一つの戦争であった。ドイツに敗れると生きて再び故国の土をふまじの覚悟であった。
満州で砲丸と戦う代わりに自分はテニスの球を砲丸と思いラケットを握って戦うとすれば満州の兵隊にも申し訳が立つとの思いだったらしい。
オーストラリアの17歳の格下に負けたのがトラウマのなっていたらしい。
彼はコート上での国別対抗戦の敗戦にたいして国家国民に申し訳ない合わせる顔がないと腹を切る代わりに投身自殺をして果てたのだ。
あの時代を思えば、みんなそんな思いであったと思うが命を絶つという行為に、佐藤次郎の大和魂を見る思いがした。
日本と英国で新たにフイルムが見つかったとのことでの、番組だったかもしれないが、はるか昔の3位を強調せねばならないところに、日本人のジレンマを思う。
女子の全仏を征した中国のりー・ナ、このスポーツでは日本が先行していたはずなのに、あれよあれよと言う間に持っていかれてしまった。29歳のりー・ナの活躍はまさにあっぱれ。全豪では準優勝とテニス界では晩年と思える年齢になっての一歩一歩の成長は、努力すればこうなれるんだよと範を示してくれたのだ。
これを契機に日本を含むアジア選手の活躍を期待したい。